菊の文様に畏怖の念を抱く。
私たち日本人が共有するサブリミナルな意識なのかもしれません。美しい菊のデザインに、知らず知らずの内に畏まってしまうのは私だけではないような気が致します。
永遠(とわ)に畏(かしこ)む菊花石。
普段の生活ではあまり使うことのない「畏む」という言葉。畏れ敬うことを意味する自動詞ですが、現在の生活ではむしろ、緊張して慎ましやかにしている人に向って、「何を畏まってんねん」とからかい気味に発する言葉として定着しています。
実はこの菊花石、三輪坐恵比須神社の参集殿の床の間に飾られています。
結婚式のロケーション撮影でお世話になっている恵比須神社の宮司さんのお計らいで、特別に参集殿の中をご案内頂きました。自然石であるにも関わらず、見事な菊の文様が浮き出ているパワーストーンではないでしょうか。死語になりつつある「畏む」という言葉がピッタリきます。
参集殿に飾られていた写真。
初市祭における御湯の神事の様子ですね。2月6日の初市大祭の翌日に行われる神事として知られますが、私はまだ一度も御湯の神事を見たことがありません。今回はお写真だけでも拝見できて、少しは臨場感を味わわせて頂きました。
床の間に鎮まる菊花石。
永遠(えいえん)にと発音するよりも、永遠(とわ)にと言った方が遥か彼方の未来が想像されます。「永遠にかしこむ菊花石」と七五調にもなっていて、言葉のリズムもいいですね。
宮司さんに菊花石の裏側を拝見させて頂きました。
菊の文様が裏側にまで回り込んでいます。パワーのみなぎりを感じます。
偶然に出来た文様であると言ってしまえばそれまでですが、ここは三輪山の麓に鎮座する恵比須信仰本源の地です。神奈備三輪山の山中には、数多くの磐座が鎮座しています。神の依り代として崇められてきた磐座のことを思うと、目の前の菊花石にも、何やら言い知れぬパワーを感じるのです。
神は決して姿を現さない。
何かを媒介にして、私たち人間の前に現れる。神とはそういうものだと思うのです。眷属(けんぞく)と呼ばれる伊勢神宮の鶏、春日大社の鹿、伏見稲荷大社の狐なども、神の似姿であると言ってもいいのではないでしょうか。
三輪の恵比須神社拝殿。
祈祷の行われる神聖な場所ですね。
この奥に本殿が鎮まっています。私は最近、恵比須神社の北隣りにある三輪公園に於いて息子と野球をして遊んでいるのですが、時々ボールが本殿の裏側の庭の中に入ってしまいます。宮司さんにはいつもご迷惑をお掛けしているのですが、そういったご縁もあってか、今では大変仲良くさせて頂いています。
影向の石なのでしょうか。
今回は恵比須神社の名物にも成り得るスピリチュアルな石をご紹介頂きました。
宮司さん、この場をお借り致しまして深くお礼申し上げます。
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