飛鳥寺と甘樫丘の間に広がる飛鳥寺西方遺跡。
年末に飛鳥寺を訪れた時、飛鳥寺西方遺跡の発掘調査が行われていました。古代の遺跡が密集する飛鳥寺界隈ではよく見かける光景です。既にグリーンのシートが掛けられていて、中までは見学することができませんでしたが、遺跡の案内板に目を通しながら飛鳥時代の面影を追いかけます。
飛鳥寺西方遺跡。
遺跡の向こう側に飛鳥寺の堂宇を望みます。
この辺りにはその昔、大きなケヤキの木が立っていたと伝えられます。
明日香村教育委員会文化財課による飛鳥寺西方遺跡の説明書きです。
法興寺槻樹下(ほうこうじ つきのきのした)の文字が見えます。
槻(つき)とはケヤキのことを意味します。法興寺は飛鳥寺のことですね。
大化の改新に結び付く歴史的な出会いとして知られる、中大兄皇子と中臣鎌足の蹴鞠の会。二人が蹴鞠に興じた場所が、飛鳥寺の西門外にあった広場でした。時を超えて歴史の転換点に立つ充実感を覚えます。
入鹿の首塚と飛鳥寺西方遺跡。
大化の改新で討たれた入鹿の首塚が、飛鳥寺西方遺跡の東側に建っています。
非常に丈夫で、長持ちのするケヤキの木。古くから建築資材としても重用され、京都の清水寺の舞台もケヤキの木で造られています。甘樫丘から亀石へ向かう道中に架かる橋の手前に、槻の若木が植樹されていました。これから長い年月に渡って、飛鳥寺のシンボルでもある槻の大樹が飛鳥を訪れる人の目を楽しませることでしょう。
古来の日本では、槻の巨木の下に産屋を建てる習慣がありました。
お産に臨む母親と赤ちゃんを悪霊から守る役割を果たしたと言われる槻の大樹。日本の歴史のターニングポイントにもなった槻樹下(つきのきのした)には、私たちの知り得ないパワーが宿っているのかもしれません。
壬申の乱における大海人皇子(天武天皇)の勝利の端緒を開いた戦いも、何を隠そうこの地に於いて行われたと伝えられます。
今は妻の持統天皇と共に飛鳥の地に眠る天武天皇。
律令国家の礎を築いた天皇として後世に語り継がれる、歴史上の重要人物です。天武天皇もケヤキの持つ霊的なチカラに助けられたのでしょうか。
案内板を読み進めると、どうやら相撲も催されていたようですね。
様々な儀式やイベントに利用された飛鳥寺の西の広場。桜井市の相撲神社を例に挙げるまでもなく、神様に奉納する神事として行われていた相撲。昨今では貴乃花親方がダイエットとしておすすめする四股には、地鎮の意味が込められています。
宴会も開かれていたようですが、宴会の起源にも、神様の供え物のお下がりを頂戴するという直会(なおらい)の考え方があります。酒や肉を断っていた潔斎期間を終え、平常の状態に直る(戻る)ことを直会と言います。
古代の人々にとって、槻の大樹の下は宴の場所としては最適だったのではないでしょうか。
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